最近は人と多少話す

小さい頃は金も服もネットもなくたって楽しく遊べていたことを最近思い出した。実家が岩手にあるのだけど、そこは山奥なので本当にすることがない。実際に去年の夏に行った時もずいぶんと退屈してしまった。でも小・中学生の頃はそこが大好きだった、まあ姉や親戚という遊び相手がいたこともあるが。結局のところ、今も昔もだいたい同じ感じで遊べるものといったらもはや絵を描くことぐらいしか生き残ってない。

でも「今までずっと描いてきた」ということに固執して、惰性で描いているだけなんじゃないかと、ふと定期的に思う。昔の「純粋だった自分」みたいなありもしない幻想の延長にいる自分、ということにしておきたいだけなのではと。「純粋」にこだわると、ろくなことにならない。類義語に「本当の自分」などがある。

今日は車内で母と、母の職場にいるおばさんの生態について会話し、「家事とパートぐらいしかすることがない人間は粘着質である」というような結論に達した。日々同じような場所で同じようなことをしている人間には新しいできごとなど巻き起こらないから、同じようなことばかり考え視野が狭まりネチネチした人間になる、と。私の職場(こう表記することで例え週2のバイトでも立派な職に就いているような雰囲気を醸せる小技、積極的に使っていきたい)のオーナー的立場のおばさんは農業のリーダー格みたいな人物で、そこかしこに講演を頼まれたりしているのだけど、おばさんなのにすごくカラッとしている好人物なので、色んな人間と関わって色んな経験を積んでいる人物ほど他人に寛容というのは真理だと思う。

昨日は施設で専用の衣服を着せられ、半拘束状態のなか私を担当する人物が刃物を巧みに操り私の身体の一部を切断した上それを私の目の前で掃き捨て果ては金を要求されたんだけど、施行中その人に「白髪あるけどどうしますか」と言われ「切ってください」と答えたあと、「私に外国の血が流れてるってことにはなりませんか」「それはどうですかね」「外国の血、憧れるんですよ」「分かります、両親や祖父母だとちょっと濃い感じだけど」「その上の上ぐらいに『実は』みたいな感じで流れてると」「「いいですね」」みたいな会話がちょっとだけ盛り上がった。