辛く悲しい世の中、という認識をしている脳みそからお送りします

世の中は辛く悲しいので、その中で日々生き抜いていると辛い思いをすることが多い。

他人と見比べ、劣っている部分を大勢に晒し続けるかけがえのない毎日。

いくら自分が素晴らしいと思えるものを作っても、もっと素晴らしいものの前では、酷く醜い。相対性というものはいつもあふれんばかりの辛さを寄越してくる。私より素晴らしい作品と見比べなければ、私の作品も素晴らしいものでいられるというのに。

辛い。自分がこんなにも神経を尖らせて作ったものが、自分自信にも酷く醜く映るのが、耐え難く辛い。こんなに辛いことってあるのか。これでは生きている意味が分からなくなってしまって、生きている意味が無いという認識にまで到達してしまうと、死んでしまう可能性がある。私が死んでしまっては私が困るので、まだなんとか死んでしまわないように何か対策を練らねばならない。「練らねばならない」って、すごく粘ついているなあと思うし、昨日中二の女子が言っていた「オニオンのにおい」というワードがなんか気になっています。その子はバイト先の奥さんの娘で、小3の頃から知っているのですが、もう中学生なのでカフェの手伝いもしています。それで昨日一緒に洗い物をして、あんなピュアな子供に「○○○さんは面白いから話してて楽しい」と言われとても救われました。自分自身つまらない人間だという自覚があったので(対人面では特に)とても意外だった。

信じたいことしか信じない、ということを最近よく意識している。その方が不安もなく健康的だからだ。でもそんな不確かな安心は、本当に健康的なんだろうか。

他人に自分のことを理解してもらいたい、共感されたいと思うこと自体がなんだか醜いような気がしてしまって辛い。本能的な欲求のはずなのに、果てしなく不毛な気がしてならない。けれども誰もがおのおのの「自分」を生きているのだから「自分」を生かそうとするしそれが自然で、それを有利に運ぶために他人に情を抱かせ「自分」が生きることを肯定してくれる仲間を作ろうと努力していて最近コミュニケーション能力とかを意識しはじめたりしている。みんな、おのおのが生きようとして色々なことを考えている。それを意識し過ぎるとかえって不自然になるのだけど、私にはまったく意識もせずにただただ生きようとし、かつその打算性に気が付いていない状態こそ醜く見える。