顧み太郎
絶望太郎らしくおとなしく絶望してたらなんか昔のブログを読む気になって(といってもずっと非公開にしていたもの)、2011年8月の日記が少し面白かったので引用してみる。
>酷い自分語り
全部だめになった。
もう終わっちゃった。
言い訳する。
わたしは自意識過剰でプライドが高くて、他人には絶対見下されたくないって、考えなくても既に思ってるらしい。
いつもそれが頭にあるんじゃないのに、ずっと下の根っこの部分でそういうことになってる。
何故かは何故だかわからないけど。
でもまあ、程度の差こそあれ多分誰だってそうじゃん。
わたしはその傾向が結構強いほうってだけだし、だめとか変とかそういう話じゃない。
で、なんか他人に自分を見せるにあたってすごく良く見せようと思うわけ。
では、どうすれば今の自分以上の評価を他人から得られると思うか?(実際に高評価を得られるかどうかでなく、自分が他人から高評価を得られている感さえ得られればよいという意味)
それは、徹底的に自分を批判すること。
粗探しのようなもんです。
まあ、これはこれでいいのかもしれない、一意見を批判し、その批判を批判し、それをまた批判していくことで深まる考えもあるだろう。
そしてそんな自分をちょっと好きだったりもするだろう。
でもそんな理屈を絵に当てはめると、酷く息苦しい。
結局、どこまでいっても完璧なんてあり得ないからだ。
どこかでおしまいにしなきゃ、行き場もクソもないからだ。
終わりを決める行為、それがいつの間にか「妥協」や「怠惰」に思えて、そんなことをする自分は脳みそで思う前に許せなくなった。
絵を描いて残すたび、なんか悪いことしてるみたいな気がして、それでも絵は好きで、描き始めることが好きで、描き終わるのが嫌い。
ほんとうはもっと気楽に描きたい。
なのにだめなんだよ。
誰かに不快に思われたら終わりなんだよ。
他人を気にする癖、強烈な思い出。
生きてる間はもうずっとこのままだろう。
誰かのせいにして楽になれる感覚はもうない。
どこまでいってもこんな自分は付いてまわる。
ここはもうしょうがないから(この「しょうがない」という言葉を使う度ものすごく悲しくやるせない気持ちになる)、じゃあこれをどう扱うか?、それを考えればいいんだけど、いまだにぜんぜん分からん。
分からんけど、技術を上げるしかないと思った。
技術が上がれば、自分に対する不満もいつか少なくなるんじゃないか?、なんて、そんなことはないって分かってるんだけど。
溝が埋まるなんて、原理的にあり得ないからだ。
でも、こうする以外何があるんだよ。
表現したくてたまらないのにその根源を、そう突き動かす原動力を無くすなんて無理なのだから。
みんなこんな感じなんだろうな。
たのしいことと一緒に辛いことも受け取らないと何もできないから、何かをするしかないんだって。
生きていくって、それもたのしいことをしながらそうするって、大変なことだ。
本はちゃんと作るよ。
イベントはまだあるし、それじゃなくたって誰かに見てもらうことはできる。
ゆっくりやらしてもらおう、お母さんごめん。<
冒頭の、「全部だめになった」が何を指しているのか最初自分でもよく分からなかったんだけど、絵とか本とか言ってる辺りおそらく初めての同人誌を作成するにあたって時間配分がまったく分かっておらず、切羽詰まりながら本文にかける時間を捨てて何日もかけて表紙絵を描いたのにその出来が自分でも全然いいと思えないわネットでの評価も散々だわで心が折れたときのことでしょう。
当時厚塗りに感銘を受け、メイキングを見ながら必死に描いていたんだけど、厚塗りって丁寧に書き込み過ぎると質感にぬめりが出てきて、なんていうかすごく芸術的になってしまうわけです、写実的な方向で。私は神経質でつい大局より細部のほうにマウントをとってしまうから、結果として中途半端に芸術かぶれな絵となり「こんなはずではなかった」と嘆いているのが上記の日記。
あともうひとつ。
>ヤクルトを煮詰めたような色したあんこのようなスイートポテトのようなものをベースに、パステルオレンジとコーラルピンクでお花にした和菓子のようなものをおばあさんが目の前で作ってくれたので食べたら、生クリームのようなやさしい乳脂肪風味のやわらかくてあまい食べ物でした。
夢の中で初めて初めて食べる食べ物を食べた。
で、わたしは思うんだけど。
あれは色の味だったんだなあ。
だってあの味は、色のイメージぴったりだった。
3時間睡眠だったから夢をおぼえていられたのかもしれない。
今度はアイスグリーンの音と薄紫の温度の夢をみたい。<
アイスグリーンはよく響く高音域の金属音だと思うし、薄紫は暑くも寒くも適温でもないと思う。