絵を描くことは健康的でもあるし不健康的でもあるという話

情熱が長続きしないと絶望する。何かが失われたり損なわれたりすると悲しくなるようにできているせい。あったものがなくなるのは、人間にとって不健康なことだからだ。

「その程度のものだったんだ」という言葉が嫌い。「そんなことする相手は、その程度の人間だったってことじゃん」と励ましたつもりになっている女友達が嫌いだった。うるせーそう思えないからこうなのに「こう思え」と、こうくる。圧倒的短さの堂々巡り、いや巡ってない、往復しかしてない。言葉は飾りでしかなくて、その言葉を発することで「私はあなたを励ましたいと思っています」と伝えた気になれるのだろう。それを受けて本当にありがたいと思える選ばれた人間だけが彼女と友情を築くことができるという仕組みだ。私はふるいにかけられたのか、はたまた私がふるいにかけたのか。

「話を聞くぐらいはできるからなんでも話して」も嫌いだ。なぜなんでも話してやらねばならんのだ。確かに言語化することで思考が整理されることもあるけれど、それならば猫でも蜘蛛でもチラシの裏でもいいはずで、むしろその方が他言されたり弱みを握られたりする心配もなく心身ともに健やかでいられる可能性が高いのになぜよりによってお前に話す必要がある、人の悩みを面白がりやがって、と今になって思う。こういう相手には絶対に話してはいけないと思うけれど今の私にはそんな戯言を言ってくる相手さえいないのだった。平和だ。

決して感動が損なわれたわけではない。本当に感動する話だった。だから絵を描こうと思った。絵を描いて脳内のイメージを現実に転化して、自分がこんなにも心を動かされたということを忘れないようにしておきたかった。描きとめておかないといずれ損なわれてしまって、それは不健康だからだ。

感動することは健康的だと思う、生きていてよかったと思うから。自分でも自分の人生けっこうクソだと思うけど、それでもたまに感動することがあるから、描きとめる必要が出てきて、それで今のところ健康的でいられているのだと思う。でも「もっと運動したほうがより健康的でいられるのではないか」と言われたら、肯かざるを得ない。